『鍛冶職人と触れ合える』備前長船刀剣博物館、味司 野村

実家の神戸に帰省中、ここを拠点に関西の観光地を攻めていきます。今回は、岡山県にある備前おさふね刀剣の里にある刀剣博物館を訪れました。多少なり古来の日本刀に関心があったり、戦国時代を舞台とした歴史ゲームなんかをやった経験のある人ならばおそらく備前長船という単語には憶えがあるのではないでしょうか。これは備前国邑久郡長船村という地名を表しており、古くから刀の名産地として知られていました。この地にある刀剣博物館では古いものから新しいものまで様々な刀剣が展示されている他、現代の刀匠達が実際に刀剣を作っているところを見る事も出来ます。

備前長船刀剣博物館の基本情報

公式Webサイト
Wikipedia
Google maps


【住所】岡山県瀬戸内市長船町長船966
【営業】月曜定休、12月28日~1月4日及び祝日の翌日は休館。9:00〜17:00
【料金】大人500円、大学生/高校生300円(※企画展の場合はその都度変更)
【駐車場】有無(無料)
【問合せ先】備前長船刀剣博物館(電話 0869-66-7767)
【所要時間】約120分(※俺の場合)
【客層】若年者6割、高齢者4割、男女比6:4、単身者半数(平日夕方)

【個人的評価】3.5/5点
★★★★★:行かないと人生損してるレベル
★★★★☆:宿泊旅行の主目的になりうる
★★★☆☆:日帰り旅行の主目的になりうる
★★☆☆☆:宿泊/日帰り旅行の副目的になりうる
★☆☆☆☆:別件の用事で近くにあったら寄ってみたい
☆☆☆☆☆:可も無く不可も無く

神戸の実家から山陽自動車道で岡山県に向かい、備前ICで降りてから約30分で刀剣博物館に到着しました。周囲は田んぼに囲まれていて閑静な雰囲気でいい感じです。刀作りが行われる場所がビル街にあるのではイメージも違いますしね。

戦国無双の刀剣展

この刀剣博物館では、年に数回特設展をひらいています。少し前にはエヴァンゲリヲンと日本刀展が話題になっていましたね(リンク先は上野の森美術館のもの)。今回訪れた時には、コーエーのTVゲーム、戦国無双とのコラボによる特設展(戦国無双の刀剣展)が開かれていました。戦国無双というゲームは実は自分はプレイした事がないのですが、三國無双は好きなゲームの一つです。多分に、物語の背景や登場人物が三国時代のそれから日本の戦国時代のそれに変わったくらいで、ゲームシステムは大差無いものと思うのですが・・・

尚、備前長船刀剣博物館における戦国無双の刀剣展は既に終了しており、現在は山口県岩国市に場所を移して開催されているようです(2014年9月時点)。

閉館時間過ぎた時の写真なのでガラガラです。

入り口にはでかでかと、戦国無双特設展の開催をしらせるパネル等が設置されていました。訪れている客層も割と若い人が多かったのですが、それは元々そうなのか、それとも特設展の効果なのかはわかりません。


刀剣の世界

中に入ってチケットを購入すると、まずは刀剣の世界と銘打たれた区画が目に入りました。素材や各部名称、作り方など刀剣に関する基礎知識を学べるところのようなので、刀剣ド素人の自分は刀剣の展示を見る前にまずこちらから見ていく事にします。

左から右にかけて加工されていく様子がわかります。刃の根本の部品も多くの工程を経てつくられるんですね。

この様に、刀の種類や刀作りの歴史、制作模様、各部名称などがパネルや実物のモデルを用いてわかりやすく解説してくれます。刀剣を展示している美術館や城郭は多々ありますが、こうした刀に関する知識を学べるところってあまり無いので非常に面白かったです。

こんなものもありました。一口に日本刀といっても長さなど色々異なるので重さも様々なのでしょうが、1kg弱くらいなのですね〜。では早速・・・

たった1kg弱、たかがペットボトル2本分と侮っていましたが、いざ手に持ってみるとズッシリと重たい。これだけ長いものなので、端を持った時に手にかかる負担もそれだけ増すという事でしょう。こんなものを振り回したら、文字通り刀に振り回されてフラフラしてしまいそうです。しっかりと地に足つけて綺麗に刀を扱える事がどれだけ凄い事なのか、素人ながらに多少はイメージする事が出来たように思います。漫画のように目に見えない連撃とか、銃弾を払いのけるとか、勿論最初からギャグの世界とはわかっていますが実際に重さを体感した事で一層「あれはギャグだ」という認識を新たにしました(今、書きながら何言ってんだろう俺とか思ってます(´・ω・`))。

刀作りの工程が詳しく紹介されています。後述しますが、この博物館には工房も併設されており、実際に職人達がそこで仕事をしている様子を直に見る事が出来ます。

戦国無双の刀剣展(1F)

では、メインの戦国無双の刀剣展の展示にうつっていきます。

この日はガラガラで、ゆっくりと時間をかけて見学する事が出来ました。ちなみにエヴァの時は物凄い人出だったそうで、今回の戦国無双コラボもぐぐってみると夏休み中は大変な混雑だったみたいですね。やはりどんなものであれ企画物は平日を選ぶのが間違い無さそうです。それが簡単に出来たら苦労はしないって話ですけどね・・・orz

ちなみに、この刀剣博物館は普段は撮影禁止なようです。企画展の時に限ってOKという事だそうなので、来館の際には受付で撮影してもよいか確認しておくと良いでしょう。

伊達正宗・片倉小十郎

片倉小十郎って誰?(´・ω・`)・・・と、帰ってから調べたら片倉景綱なのですね。それなら名前くらいはなんとか・・・

伊達 政宗(だて まさむね)は、出羽国と陸奥国の戦国大名。陸奥仙台藩の初代藩主。幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世独眼竜と呼ばれた。

Wikipedia(伊達政宗)

片倉 景綱(かたくら かげつな)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将である。伊達氏家臣で、伊達政宗の近習となり、のち軍師的役割を務めたとされる。仙台藩片倉氏の初代で、景綱の通称「小十郎」は代々の当主が踏襲して名乗るようになった。伊達家中では「武の伊達成実」と並んで、「智の片倉景綱」と呼ばれた。一説によれば剣術にも長け、幼少期の政宗の剣術指南も務めたと言われるなど智勇を兼ね備えた武将であったと伝えられている。また大変な笛の名手であったとも言われる。

Wikipedia(片倉景綱)

今回展示されていた全ての刀剣の中でも、五指に入るくらい個人的に気に入ったものの一つです。刀、鞘とも派手すぎないながらも黒金の非常に気位の高い感じがとても好き。刃も綺麗ですね〜。

・・・え?これ片手で扱うの?何kgあるのかしらんが無理だろ・・・(^ω^;)

毛利元就・小早川隆景

毛利元就が右腕につけている武器は、三本の矢の逸話からきているのでしょうね。それにしても戦国時代の武将って格好良い名前や氏が多いなぁ。伊達、毛利、織田、徳川、豊臣、島津、大友、北条、真田・・・

毛利 元就(もうり もとなり)は、室町時代後期から戦国時代にかけての安芸(現在の広島県西部)の国人領主・戦国大名。安芸の小規模な国人領主から中国地方のほぼ全域を支配下に置くまでに勢力を拡大、中国地方の覇者となり「戦国最高の知将」「謀神」などと後世評される。用意周到かつ合理的な策略及び危険を顧みない駆け引きで、自軍を勝利へ導く稀代の策略家として名高い。

Wikipedia(毛利元就)

小早川 隆景(こばやかわ たかかげ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。 毛利元就の3男で、兄弟に同母兄の毛利隆元・吉川元春などがいる。毛利両川の1人として、元春と共に毛利氏の発展に尽くした。毛利水軍の指揮官としても活躍している。豊臣政権下では豊臣秀吉の信任を受け、五大老の一人に任じられた。

Wikipedia(小早川隆景)

立派なクワガタ(角飾り)の兜も格好良いですがこの兜も好きです。兜は見た目にも目立つので、色々な嗜好がこらされていてどれも見るのが楽しいですね。

織田信長

ご存知信長。魔王然としたキャラデザインですが、第六天魔王を自称し、地蔵の首を撥ねたり比叡山を焼き討ちしたりしたその人物像からもなんとなくしっくり来るような気はする。

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。室町幕府を事実上滅亡させ、畿内を中心に強力な中央政権(織田政権)を確立。戦国時代の終結に最大の影響を与えた人物の一人である。この政権は豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと続いていくことになる。天正10年6月2日(1582年6月21日)天下統一を目前にして重臣明智光秀に反旗を許し、本能寺で自害した。

Wikipedia(織田信長)

小桜韋威胴丸は、先ほどの伊達重村の刀に続いて気に入ったもの五本の指に入ったものの一つ。何だこの綺麗な鎧は!?絢爛豪華な安土桃山時代のイメージにピッタリな華麗さに目を奪われました。兜も格好いいな〜。少し色が褪せているようですが、それが逆に控えめな豪華さの演出になってより自分好みです。つまり、制作された当時はもっと派手だったのでしょうが、その派手さは自分好みではないかもしれませんねw

徳川家康

さっきから思っていたのですが、戦国武将というのはどうもイメージがゴリゴリに固まっていますね。信長は魔王、家康は狸、秀吉は猿、そういったようなイメージはゲームや小説問わずどの作品においても踏襲されていて、なんだか面白い反面もうちょっと作品毎の特色があってもいいなとも思います。

徳川 家康(とくがわ いえやす) / 松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。織田信長と同盟し、豊臣秀吉と対立・臣従した後、日本全国を支配する体制を確立して、15世紀後半に起こった応仁の乱から100年以上続いた戦乱の時代(戦国時代、安土桃山時代)に終止符を打った。家康がその礎を築いた江戸幕府を中心とする統治体制は、後に幕藩体制と称され、17世紀初めから19世紀後半に至るまで264年間続く江戸時代を画した。

Wikipedia(徳川家康)

確かに、ブランド物のバッグと言われるとそのようにも見える・・・!

火事装束の兜は和紙でできているとの事だったが、一体どこが紙なのか全くわかりませんでした。というか、火事装束に紙使っていいのか・・・?

黒田官兵衛

黒田 孝高(くろだ よしたか)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され福岡藩祖となる。諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(読み同じ)、のち孝高といったが、一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは出家後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。

Wikipedia(黒田官兵衛)

ガラシャ

明智光秀の娘。キリシタンであるため洗礼名としてガラシャと呼ばれていますが、キャラデザはもはや戦国時代の日本人という前提が遠くに吹き飛んでしまっているようです。三國無双でもぶっ飛んだデザインは多々ありましたし、奇抜さがあった方が面白いので個人的にはこういうのは好きですけどねw

細川 ガラシャ(伽羅奢、迦羅奢) / 明智 珠(明智 玉)(ほそかわ ガラシャ / あけち たま、永禄6年(1563年) - 慶長5年7月17日(1600年8月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。明智光秀の三女で細川忠興の正室。諱は「たま」(珠、玉)または玉子(たまこ)。キリスト教信徒(キリシタン)として有名。明治期にキリスト教徒らが彼女を讃えて「細川ガラシャ」と呼ぶようになり、現在でも広くこのように呼ばれる場合が多い。

Wikipedia(細川ガラシャ)

島津義弘

島津氏きた!

島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主。家康だけでなく秀吉も島津氏を恐れ、その弱体化を図るために義弘を優遇して逆に兄の義久を冷遇する事で兄弟の対立を煽ろうとしたが、島津四兄弟の結束は固く、微塵とも互いを疑うことは無かった。

Wikipedia(島津義弘)

実は俺が戦国大名の中で一番好きなのが、島津四兄弟の長兄である島津義久です。小学生の頃に遊んだ信長の野望でも、自分が操作する大名として島津義久ばかり選んでいましたっけ。でも今回の企画展では島津義久は居ませんでした(´;ω;`)

島津 義久(しまづ よしひさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。薩摩国の守護大名・戦国大名。島津氏第16代当主。優秀な3人の弟(島津義弘・歳久・家久)と共に、精強な家臣団を率いて九州統一を目指し躍進し、一時は筑前・豊後の一部を除く九州の大半を手中に収め、島津氏の最大版図を築いた。豊臣政権・関ヶ原の戦い・徳川政権を生き抜き、隠居後も家中に強い政治力を持ち続けた。

Wikipedia(島津義久)

島津豊久

お、豊久だ。島津義弘の弟である島津家久の息子で、義弘からは甥に当たります。ヘルシングの作者、平野耕太が現在連載中の漫画『ドリフターズ』(島津豊久が主人公)は俺も読んでいます。4巻いつになったら出るん?w

日本のサムライをはじめ、古代の戦術家、西部開拓時代のガンマン、第二次世界大戦時の軍人など古今東西の英雄が、中世ファンタジー風の異世界に召喚されるアクション系歴史ファンタジー作品。タイトルの「ドリフターズ」とは英語で「漂流物、放浪者」などを意味する。前作の『HELLSING』同様、陰影を強調した重厚な絵柄や独特の大仰な台詞回しが特徴。歴史上の偉人が一堂に会するロマンや、多数盛り込まれている史実の逸話を思わせるエピソードは元より、道具・技術の進化や文化・概念の違いが如何に現実世界に変化をもたらしたかの人類の歴史の変遷も描かれている。

Wikipedia(ドリフターズ_漫画)

島津 豊久(しまづ とよひさ)は、安土桃山時代の武将。島津氏の家臣。名は初めは島津忠豊で後に改名した。

Wikipedia(島津豊久)

二階へGO

一階の展示はこれで全部です。お次は二階!

現代の刀匠の作品もありました。この人、俺と同い年だ!

戦国無双の刀剣展(2F)

2階はこんな感じ。一人で来ている若いお姉さんが二人、何周もしてじっくり堪能していました。戦国無双が好きな人だったのかな〜。

武田信玄

武田信玄。・・・といえばやっぱり赤い鎧に白いヤクの毛、そして軍配ですよねぇ。

武田 信玄(たけだ しんげん)は、戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。江戸時代から近現代にかけて『甲陽軍鑑』に描かれる伝説的な人物像が世間に広く浸透し、「風林火山」の軍旗を用い、甲斐の虎または、龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも呼ばれる。NHK大河ドラマ『武田信玄』に代表されるように、無敵と呼ばれた騎馬軍団を率い、また上杉謙信の良き好敵手としての人物像が形成される。

Wikipedia(武田信玄)

えらい格好良い軍!デザインが結構好きです。でも、説明を読むと18世紀のものなので武田信玄とは全く関係のないものっぽいですね(´・_・`)

真田幸村

戦国無双の主人公格だそうですね。若々しくていかにも主人公然としたキャラデザインですが、自分にとっての真田幸村は大暮維人の漫画『天上天下』に登場するものが好きです。こんなオッサン。回想にちょろっと出てくるだけの役割ですが格好良いんです(´・ω・`)

真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。江戸時代初期の大坂の陣で豊臣方の武将として活躍し、特に大坂夏の陣では、3500の寡兵を持って徳川家康の本陣まで攻め込み、家康を追いつめた。 この合戦に参戦した将兵による記録・証言が基となって、後世に江戸幕府・諸大名家の各種史料にその勇将振りが記録された。それらを基に軍記が作成され講談や小説などに翻案、創作されて、真田十勇士を従えて宿敵・徳川家康に果敢に挑む英雄的武将・真田幸村(さなだ ゆきむら)として語られるようになり、庶民にも広く知られる存在となった。

Wikipedia(真田信繁)

おっ、妖刀村正!徳川家に様々な害をなした事から徳川家では村正を忌避し、それが下々にも伝わり呪われた刀として有名になったという伝説が残されています。ここで、村正は刀そのものを指す事もありますがそれは一振りの特定の刀の事ではなく、刀匠である村正が作刀した刀全般を指すものです。従って、この写真の村正以外にも妖刀村正は沢山あるのですね。

Wikipediaによれば、真田幸村は徳川家康を滅ぼす事を念願としていることから徳川家が嫌う村正を使用していたとか、大阪夏の陣で家康を急襲した際に家康に向かって投げつけた刀が村正であったとか言われているそうです。

まぁ、真田幸村といえば普通はこちらの十文字槍の方が有名でしょうか。説明を読むと、平和な時代にあって十文字の刃を製造する技術は既に失われており、今回の展示にあたって苦心して製作方法が編み出されたとの事です。この展示の後にも新たな製法が提案され続けているそうです。これらの製法は当時の製法とは異なるものかもしれませんが、ゲームとのコラボなり何なりをきっかけとして技術を生み出したり、守ろうとしたりする機運が高まるというのはとても良い事ですよね。・・・ちなみに、戦国時代の当時に真田幸村が用いた十文字槍の刃もまた、村正であるそうです。

蝶々・・・にはちょっと見えないですが、なんだか妙な迫力を感じます。どちらかというとナマズを連想しましたが、別にナマズには似ていないですよね・・・なんでだろう?(;´Д`)

真田信之

真田幸村の兄。正直よくしらない・・・orz

真田 信之(さなだ のぶゆき)は、安土桃山時代から江戸時代前期の武将、大名。信濃松代藩の初代藩主。後世に「真田幸村」と呼ばれ伝説化した弟・信繁、また「表裏比興の者」と評された父・昌幸と比べると一般には知名度の低い人物である。しかし、長らく人質として過ごしてきた信繁と異なり、早くから昌幸の片腕として活躍し、北条・上杉・徳川との戦いで勝利を重ねて真田家を守った。この活躍によって、敵方である徳川の重臣・本多忠勝の娘である小松姫を娶っている。豊臣秀吉の死後の混乱期においては徳川に属して家名を守り抜き、徳川の治世下でも幕府に対する忠誠と父譲りの才気で明治まで続く松代藩の基盤を固めたことは、父弟の評価に何ら劣るところはない。

Wikipedia(真田信之)

両の刃に赤青の色がついた派手な武器ですね。ゲルググのビームナギナタじゃあるまいし、両刃の薙刀?なんて実用性皆無じゃないのとか思いながら見ていたのですが。説明を読むと、ゲームでは片刃、もう一方の刃は仕込みなんですね。いやまぁ、それ以前にゲームなんだし両刃であってもブンブン回して無双していてもおかしくはないかw

稲姫

キャラが持っている弓と展示に随分と乖離があるような気がする・・・と思ったら、展示の弓は今回の展示にあわせて作られたものではなく、江戸時代当時の実物でした。

小松姫(こまつひめ、天正元年(1573年) - 元和6年2月24日(1620年3月27日)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。上田藩、のち松代藩の藩主・真田信之(信幸)の正室。徳川氏譜代家臣の本多忠勝の長女(第1子)で、母は側室の乙女。幼名を稲姫(いなひめ)、または於小亥(おねい)と称する。

Wikipedia(小松姫)

本多忠勝

ゲームでの声優は大塚明夫さんなのですね。この槍は展示に合わせて作られたものですが、稲姫同様、ゲームの武器とはデザインに乖離があります。

本多 忠勝(ほんだ ただかつ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。徳川氏の家臣。上総大多喜藩初代藩主、伊勢桑名藩初代藩主。忠勝系本多家宗家初代。本姓は藤原氏。 徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑に数えられ、家康の功臣として現在も顕彰されている。

Wikipedia(本多忠勝)

デザイン乖離の理由は、この展示品は史実の本多忠勝の槍を模して作られたためとの事でした。総重量6.324kgって・・・槍として使うより大人しく鈍器とした方が使い勝手が良さそうだ。

森蘭丸

信長の小姓で、美男子キャラとして有名な森蘭丸。ゲーム中でも倒れるモーションが女性用のものであるなど、やはり(?)そういう性格付けがなされている様子。女性と見まごうほどの容姿との事ですが、なかなかギャップのある獲物を扱うのですね〜。

森 成利(もり なりとし)は、安土桃山時代の武将で、森 蘭丸(もり らんまる)という名で広く知られている織田信長の近習である。本能寺の変で主君と二人の弟と共に討死した。

Wikipedia(森成利)

服部半蔵・くのいち・ねね・風魔小太郎

忍者!NINJA!!果たして外国の忍者好きはこのゲーム的忍者デザインをどう受け止めるのかちょっと気になるところです。何故、風魔小太郎はいつもこの手のちょっと怪しい格好にデザインされるのであろうか・・・。ゲームでは腕が伸びたりもするそうだΣ(゚Д゚)

服部 半蔵(はっとり はんぞう)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて松平氏〜徳川氏の麾下で活躍した武士。代々「半蔵」を通称の名乗りとした服部半蔵家の歴代当主である。また、歴代の当主は石見守(いわみのかみ)という百官名も持ち、服部石見守とも称した。現代において一般的に忍者のイメージがある。しかし、実際に忍者だったのは初代だけであり(ただし詳細は不明)、2代目以降は忍者ではなかったとされる。

Wikipedia(服部半蔵)

本シリーズオリジナルキャラクター。真田幸村に従う女忍者。基本的に武田家が存続している間は武田軍に所属している。おちゃらけた言動をしているが、その実はしたたかで任務に忠実。ちなみにゲームにおける口癖は「にゃは(ん)♪」

Wikipedia(戦国無双)

( ゚д゚)  >口癖は「にゃは(ん)♪」
_(__つ/ ̄ ̄ ̄/_ 
  \/   /
    ̄ ̄ ̄
 
  ( ゚д゚ )
_(__つ/ ̄ ̄ ̄/_ 
  \/   /
    ̄ ̄ ̄

高台院(こうだいいん、天文16年(1547年)? - 寛永元年9月6日(1624年10月17日))は、戦国時代(室町時代後期)から江戸時代初期の女性で、豊臣秀吉の正室である。杉原(木下)家定の実妹であるが浅野家に養女として入る。秀吉の養子となって後に小早川家を継いだ小早川秀秋(羽柴秀俊)は、兄・家定の子で彼女の甥にあたる。

Wikipedia(高台院)

風魔 小太郎(ふうま こたろう)は、後北条氏の忍者・風魔一党の頭領の代々の名前。北条家に仕えること100年の間で、最も有名なのは北条氏政・氏直父子に仕えた五代目風魔小太郎(? - 慶長8年〔1603年〕)であり、「身の丈七尺二寸(2m16cm)、筋骨荒々しくむらこぶあり、眼口ひろく逆け黒ひげ、牙四つ外に現れ、頭は福禄寿に似て鼻高し」という異様な姿だったという伝説も残っている。

Wikipedia(風魔小太郎)

北条氏康

北条 氏康(ほうじょう うじやす)は、戦国時代の武将。相模の戦国大名。後北条氏第2代当主・北条氏綱の嫡男として生まれる。後北条氏第3代目当主。母は氏綱の正室の養珠院。 関東から山内・扇谷両上杉氏を追うなど、外征に実績を残すと共に、武田氏・今川氏との間に甲相駿三国同盟を結び、上杉謙信を退け、後世につながる民政制度を充実させるなど、政治的手腕も発揮した。

Wikipedia(北条氏康)

この仕込杖、明治時代に作られた実物だったのですね。仕込み杖は細いといわれますが、確かにちょっと頼りない感じです。

前田慶次

傾奇者といわれた前田慶次。自分の中での印象は原哲夫の漫画『花の慶次』のものが圧倒的すぎますw ・・・と思ったら、ゲームのキャラもこの漫画の影響を受けているとのこと。

前田 利益(まえだ とします)は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将。現在では漫画の影響で前田慶次/慶次郎の通名で知られるが、利益、利太、利大、利貞など複数の名前を用いており、法名でも穀蔵院飄戸斎(こくぞういんひょっとこさい)や龍砕軒不便斎(りゅうさいけん・ふべんさい)と時期によって名乗りが異なる。

Wikipedia(前田利益)

綾御前

上杉謙信の姉。あれ・・・武器違うくない?と思ったらパネルのは戦国無双4、展示品は戦国無双3の時の武器だそうだ。

仙桃院 / 仙洞院(せんとういん、大永4年(1524年)または享禄元年(1528年) - 慶長14年2月15日(1609年3月20日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。長尾為景の娘。長尾政景の正室。名は綾と伝わる。

Wikipedia(仙桃院)

大谷吉継

名前は聞いたことがある気がするけどよく知らないなぁ・・・小学生の頃、初めて我が家にやってきた父親のWindows98のPCにセットでついてきた信長の野望・天翔記にえらくハマったお陰で歳の割にやたらと戦国時代に詳しくなりました。・・・が、時を経て当時の知識が皆どこかにすっ飛んでいってしまった結果「聞いたことあるけどよくわかんね」状態の武将が大量に生まれましたとさ。

大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名である。越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされ、大谷刑部(ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、晩年は頭を白い頭巾で隠していたとも言う。

Wikipedia(大谷吉継)

石田三成

自分の中で、何故かキャラが前田慶次と被るんですよね。なんだろう、派手好きっぽいイメージなのかなぁ。ゲームでは鉄扇の他、地雷を設置して戦うそうです。地雷って凄いなw

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代の武将・大名。豊臣氏の家臣。豊臣政権の五奉行の一人。 関ヶ原の戦いにおける西軍側の主導者として知られている。

Wikipedia(石田三成)

このでっかい鉄扇はかなり目立ち、室内を見渡すとまず最初に目に留まるレベルでした。見た目の再現だけでなく、実際に武器としても使えるレベルに仕上がっているとの事。他の展示品も、刀匠が真剣に制作したものなのでそれなりに耐久性もあるのだと思いますが、どうなのでしょうね〜。

加藤清正

秀吉の配下、賤ヶ岳の七本槍の一人。・・・なのですが、Wikipediaを読むとこの七本鎗の称号はあまり喜ばしいものではなかったようですね。このブログの記事を書く時には、見てきたものの背景なんかを調べながら書く事も多いのですが、思っていた事と実際とが違うという事もよくあって結構勉強になりますねw

加藤 清正(かとう きよまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。肥後熊本藩初代藩主。豊臣秀吉の子飼いの家臣で、賤ヶ岳の七本槍・七将の一人である。その後も各地を転戦して武功を挙げ、肥後北半国を与えられた。秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ヶ原の戦いの働きによって肥後国一国を与えられ、熊本藩主となった。

Wikipedia(加藤清正)

真田幸村同様、加藤清正も十文字槍が展示されていました。ただし、左右に伸びる刃の一方が短くなっています。これには天草種元との戦闘、もしくは朝鮮出兵時の虎との戦いなどで折れてしまったもののそのまま使用し続けたという逸話が元になっており、加藤清正のトレードマークとなっているそうです。実際のところ何故このように片方の刃を短く作ったのかは定かではない模様。やはり左右対称でない十文字は、いささか不格好にも見えますね。

藤堂高虎

藤堂 高虎(とうどう たかとら)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。 何度も主君を変えた戦国武将として知られる。築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城などを築城した。高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、同じ築城の名手でも石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。

Wikipedia(藤堂高虎)

なんともきらびやかな鞍ですね。派手は派手でも金や色とりどりの彩色によるものではなく、静かな派手さ(伝わるだろうか・・・)が良い感じです。

うさみみだー!!戦国武将達に人気なんですってよ、うさぎ!!可愛いもんね!!(違う
説明にはうさみみの珍妙な兜、とありますが。熊手の飾りの方がよっぽどか珍妙なような気がする・・・

パネルだけ展示の武将達

刀剣や遺物の展示がなく、パネルだけが展示されている武将たちもいました。パネルすら無い武将(島津義久とか(´;ω;`))も居るなか、パネルがあるだけでも優遇されていますよね!

豐臣 秀吉(とよとみ ひでよし)/ 羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・天下人・関白・太閤。三英傑の一人。尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたという。当初今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を表した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、織田家内部での勢力争いに勝利し、信長の実質的な後継者の地位を確立した。

Wikipedia(豊臣秀吉)

鈴木 孫一(すずき まごいち、天文3年(1534年)? - 天正17年5月2日(1589年6月14日)?)は、雑賀衆の棟梁や有力者が代々継承する名前。雑賀孫一という名でも知られ、また孫市とする史料もある。石山合戦において雑賀衆を率いて石山本願寺へ入り、織田信長の軍勢を苦しめた。その後、関ヶ原の戦い(伏見城の戦い)では西軍本隊に属して、鳥居元忠を討ち取る活躍を見せる。

Wikipedia(鈴木孫一)

前田 利家(まえだ としいえ)とは、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。はじめ小姓として織田信長に仕え、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持った。信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付くが、後に羽柴秀吉に臣従した。以後、豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、加賀国・越中国を与えられ加賀藩百万石の礎を築く。秀吉の死後、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力するが、秀吉の死の8ヶ月後に病死した。

Wikipedia(前田利家)

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国(現在の新潟県上越市)の武将・戦国大名。後世、越後の虎や越後の龍、軍神と称される。内乱続きであった越後国を統一し、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、49年の生涯の中で武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に5回に及んだとされる武田信玄との川中島の戦いは、後世たびたび物語として描かれており、よく知られている。

Wikipedia(上杉謙信)

以上で、戦国無双の刀剣展の展示は終わりです。次は外に出て、職人たちの仕事場を覗きに行ってみます。

職人達の工房

案内図の右下に逆L字型に並んでいる建物群が工房ですね。普段はこれらの工房に様々な部位の制作を担う職人達がおり、各々の仕事を進めています。

ここは公開鍛錬場・鍛刀場。毎日二人の刀匠が作刀しているそうです。年間の6割は火を使う仕事を見学出来るが、タイミングによってはお客様の元へ納品に行っていて不在であったり、炭を切るだけの仕事の場合もあるそうです。毎日見学に訪れれば、刀一振りが出来上がるまでを追って見る事が出来るとか。ちなみにこの日は見ての通り、がらんとしていました(´・ω・`)

気を取り直して次!刀剣の作刀に携わる職人にも色々あって、刀工、塗師、白銀師、鍔師、彫金師、研師、鞘師、柄巻き師・・・といった役割が存在します。名前からそれぞれどんな事をするのかは想像がつくと思います。こうした様々な職人がひとつの場所で作業が出来るのは世界でもここだけらしいですよ。普段はみな自分の工房を持っていて、そこで仕事をしているのでしょうね。

現在は毎日工房にきているのは塗師・白銀師・刀身彫刻師の3名だそうです。毎週日曜日には鞘師と柄巻師と研師(研師は祝日と第3土曜日も)の方も来場してい仕事をしているとか。それだけでなく、毎月第二日曜日には先ほど紹介した公開鍛錬場にて、1200度の高熱で玉鋼を打ち延ばす古式鍛錬を公開しているそうです。こうした職人たちの作業を間近に見られるって凄い事だと思います。

さらに第一・第三土曜日には、実際に小刀の製造を体験出来る催しが開かれている模様。やべえこれ参加してみたい!!説明を読むとなかなか参加の敷居が高いですね。全部で5工程あって、各工程に2回の参加を要すると。てことは約10回訪問する必要がある訳でね・・・ちょっと、帰省のついでに参加というのは難しいなぁ・・・数年かけて夏冬の帰省時に少しずつの参加、でもOKならなんとかなるかな?笑

職人さん、居合もできるのかー・・・。作るだけでなく自身も刀を扱えるんだ。流石だよね。

工房に居たのは結局塗師と刀身彫刻師の二人だけでした。刀身彫刻師の方はおしゃべり好きなのか、とにかく喋る喋る。色々質問して、教えてもらいましたよ。エヴァ展の裏話?とか、特設展の為に作った作品は展示終了後どうなるのかとか、一つの作品にこれだけの職人が協力しあっているけど儲けの取り分はどうなるのかといったちょっと下品な話も。気がつけばこの人と30分くらい話していました。

刀身彫刻師さんと話し込んでいたら閉館時間を過ぎてしまいました。実はこの後、桃太郎伝説で有名な鬼を祀る吉備津神社に行く予定だったのですが、おかげで時間が無くなってしまいました。一応吉備津神社に向かいはしたのですが、到着する頃にはすでに閉門しており、中に入る事は出来ませんでした。仕方がない、吉備津神社はまたの機会にしよう・・・orz

辺りはすでに真っ暗で、俺のお腹も我慢の限界です。何か岡山名物を食べてから神戸に帰る事にします。さっきの刀身彫刻師さんからは吉備津神社や岡山名物の事も聞いていたので、それに従いデミグラスカツ丼を食べる事にします。早速デミグラスカツ丼で有名なお店をスマホで探して向かいました。

デミグラスカツ丼 味司 野村

向かったのはデミグラスカツ丼発祥のお店とされている味司 野村。なんと食券式であった。ロースとヒレで悩み、並と上でも悩み、結局ロースカツ丼の並を選択。食券を渡してから10分で運ばれてきました。

カツの下にキャベツが敷いてあります。デミグラスソースはものすごい粘度で、どろり、どころではない濃さ。味も相応に濃い目で、肉の味はソースの味に上書きされている感じ。というか、肉が少ない・・・2枚目の写真で、割り箸の上にカツを横にして置いてみたのだが、割り箸の先端と同じくらいの厚みしか無い事がわかるだろうか。ちょっと800円でこれはボンビーには辛いというか悲しい。

ソースには味噌がちょっと混ざってたかな?味噌カツ丼、と言われても納得できそうw B級グルメとはこうあるべき、B級グルメのお手本のようだ、そんな感じの味だった。どういう味かというと、見た目から容易に想像のつく味だという事です。だからある意味で安心出来るというか。普通に美味しかったよ。けど、何度も行くかというと・・・。岡山名物のB級グルメ、デミグラスカツ丼を試しに一度食べてみるために行く、それ以上でも以下でも無かった。ごちそうさまでした。

この後は、実家までの約150kmの道のりを、一般道を使ってのんびり帰りました。うーん小刀制作マジでやってみたいなぁ・・・何せ、2〜3時間でちょっと研ぐだけみたいな似非体験じゃなくてちゃんと時間かけて色々な工程(焼入れまで!)を体験出来るって凄くない?

以上、備前長船刀剣博物館でした!

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